軽くて重い

いなだ易のブログ

アンジュルム新曲「悔しいわ」雑感

 

 

 

10月19日発売・アンジュルムの新曲「悔しいわ」を聴いた感想を残しておきます。

アンジュルム、ほんとにいつみてもかっこいいよね。

 

以下、作詞者の中島卓偉によるライナーノーツ(YouTubeコメント)より引用

歌詞は日常で感じる悔しさやジェラシーを逆手に取ってパワーに変換するっていうポジティヴなメッセージ。
周りと比べることなんてないけど、同世代の凄い人を見て自分にだって出来るんだと鼓舞することは何かを始める良いきっかけになるはず。
焦ることでいつもより頑張れることもありますよね。
常に一歩先へ行くアンジュルムがあえてこういう歌詞をシャウトすることに凄く意味があると思います。
オケはFUNK、BLACKなサウンドでCOOLなのに、こういう歌詞というギャップ。
でもそれはグループ全員の表現力がないと企画的な曲で終わったり遊びの1曲になってしまいますが、彼女達のポテンシャルに脱帽!
素直に「格好良い!」と僕みたいな音楽玄人を納得させてしまうパワーが今のアンジュルムにはあると思います。

 

めちゃくちゃ些末でどうでもいい余談から話を始めるとすれば、特許は運じゃないということかもしれない。

 

たとえば知的財産権の中でも創作物を保護する著作権は、創作物を生み出したことによって自動的に発生する権利なんだけど、特許権は違う。

技術的な発明がそれなりの要件を満たしていることを書き表して、官庁に対して説明し、審査を通過して、ようやく特許権が国から与えられることになっている。

「ひょんなきっかけで」ある日突然すばらしいアイデアがひらめけば、大きな利益を得ることができるかもしれないものとして想像されているようなきらいもあるが、特許を取得する作業の緻密さや泥くささはその対極にあると言っていい。

逆に言えば出願が法定の要件さえ満たしていれば権利は与えられる。けれど特許は発明を独占できる権利にすぎないから、取得だけしてもあまり大きな意味はない。アマチュア発明家の大きな壁は、商品化の過程にあるらしい。

 

こうしたことを知っていようが、知っていなかろうが別にどうということはないし、かかわりのない人がなんとなく持つパブリックイメージに罪もない(私もいちおう専門分野だから知ってるだけ、まじでいちおう)。

しかし、(大きな経済的利益を生むような)特許を「史上最高額の宝くじ」と並列し、試行錯誤の積み重ねとは無関係の「強運」によって転がり込んでくる、受動的なスーパーラッキーの例えとして用いるのはそれほどうまくない表現だな~と考えてしまった。

 

作詞者は上記の事実を知らなかったか、知っていながら、“この曲の主人公”はそれを知らないのだと設定して書いたのだろうか。その意図まではわからない。

ただ、あらゆる制度はなんらかの歴史的経緯や論理をもって運用され、人の営みを規律している。

表現において制度=現実のシステムに依拠したり、現実のシステムを比喩として用いると、そのシステムを駆動する歴史や論理も当然そこに立ちあらわれる。もちろん表現者がそのやっかいさに注意を払って乗りこなすこともできるだろうが、ともすれば上記のように表現が破綻したり、そうでなくともその実際のはたらきを知っている者にとってノイズになることがある。

 

以下に述べることは、一口にノイズと言っても、特許に対する無知とパラレルに論じられる事柄ではない。

知っていることや見えている世界の違いが生まれるのはなぜか、それ自体にかかわる話だ。

そして、だからこそこのノイズの正体は捉えがたいのだと思う。

 


では、私はいわゆる「寿退社」について何を知っているだろうか。

 “25歳定年”は、もっともらしくささやかれる"説"でもなんでもなく、公に認められた制度として、かつての私たちの上にあったのだった*1

私は法学を学ぶ中で、この日本ではつい1980年代まで、たくさんの企業が男女に異なる定年を定めていたことを知った。

高度経済成長期の経営者は、女性を労働力として雇用しながらも、”25歳定年”や”結婚退職”を課すことで人員調整を図り、また性別による処遇の違いを維持するシステムを作った*2

 

1960年代から80年代にまたがる複数の訴訟のすえ、男女で異なる定年は差別にもとづく制度であって違法だということになってきたのだという。

それならだれかと結婚し、出産し、育児に専念したい時期が生じたとしても、育児休業を取得すれば仕事を続けられるようになったのだろうか?と考えてしまうのは私が1994年に生まれているからだ。

 

労働者の育児休業を取得する「権利」が法定されたのは1992年*3

それまで、企業でも育児休業制度の導入は進んでいなかった。

定年が延びても、育休が制度化されていないなら、子育てをするカップルのいずれかは育児を理由に欠勤を続けることになる。

収入の低さやジェンダー規範を理由に、妻側が“自発的に”退職を選ぶほかない場面があったことは想像に難くない。

そうした場面をも、過去の社会では「寿(ことぶき)」と称してきたらしい。

 

男女雇用機会均等法が制定されたのは1985年だった。

それまで男女を別のコースで採用していた企業は、その看板を掛けかえ、いわゆる「総合職」と「一般職」のコース別雇用管理を導入している。

現在にいたるまで「一般職」のほとんどは女性が占めており、「総合職」の採用倍率や採用数は女性の方が低い*4。同じころには女性の非正規雇用も拡大した。

また同年には公的年金に第3号被保険者制度、いわゆる「配偶者控除」が創設され、女性が専業主婦をえらぶ動機付けにもなった。

 

70年代以降たった数十年間の歴史の中で、日本の女性は生涯を通じて「総合職」男性と同等の収入を得られるごくひとにぎりの者と、そうでない大多数の者への分岐を運命づけられることになった(そしてもちろんエリート層の内部にも男女の収入格差はある)*5

 

一方で、いわゆるM字カーブの凹みは年々なだらかになっていて、結婚などを機に退職する女性が減ったことを示している。

育児休業など、出産や育児をしながら働き続けることを可能にする制度の変化もその一因ではあるが、それだけではない。

非正規化、格差の拡大の波は男性をも飲み込み、とっくの昔にサラリーマンと専業主婦のカップルが社会の基本単位であるとは言えなくなっている。

誰もが働き続けないと生きていけなくなって、あらゆる女性を「寿退社」へと導く社会条件が失われたのだ。

独身であろうと、結婚中であろうと、仕事をしたい人が続けやすい社会に変わってきたことは確かなのだろうと思う。

そうして“女性活躍”が叫ばれる時代が訪れたけど、雇用自体の構造と一体化した男女の収入格差は解消される気配がなく、女性が自分一人の収入だけで生きていくことは難しい。

 

もはや現在「寿退社」という単語に付随してイメージされるのはごく平凡でつきなみな幸せというより、むしろ一握りの成功者の配偶者として選ばれた“シンデレラ・ストーリー”のように思える。

例えば「旦那の会社」が「上々」*6で「豪邸を買」うことができるような飛びぬけた幸運……。

このような社会状況において、2022年に発表された楽曲の主人公は、同級生の「寿退社」の噂と自分の現状を比較し、いっそうの「悔し」さを感じてしまうのかもしれない。

仕事を意に反して手放すことは苦しい。他方で、誰であろうと終わりのない労働は苦しい。私も友人たちがはやく石油王と結婚した〜いと口にするのを何度も耳にしてきた。


しかしながら、結婚相手に圧倒的な経済力があったとしても、「寿退社」をした者が確かな「生涯安泰」を手に入れたことはいまだかつてないと言って良いだろう。

家事労働は本来的に無償のものとみなされ、カップルのうち収入が低く、家事労働に主に従事する者は経済的な面で稼ぎ手に従属せざるをえない。そのことによって家庭内に権力関係がうまれる。

そして終身雇用をタテマエとする日本の雇用慣行の中で、一度仕事から離れた女性が正社員として復職し、多くの収入を得ることは難しい。

公的領域と私的領域は区別されて、「法は家庭に入らず」という原則が用いられる。家庭内でのできごとに公権力は介入せず――犯罪にあたる行為すら咎められることはまれであった。

だからこそ家族のような親密圏における暴力の存在を捉えるために、ドメスティック・バイオレンスという言葉が生まれたのだった。

女性が「寿退社」を選んだ先で、いつまでも「安泰」でいられるかどうかはそれこそ「運」によるとしか言いようがない。


このように、さまざまな意味で「寿退社」=「生涯安泰」という神話の破綻が明らかになった今なお、誰かの妻として“養われながら”生きることを「生涯安泰」だと言ってみたり、そうでなくとも結婚を人生のひとつのゴールだとみなしたりする言説は、その妥当性の有無をあえて追及されない、あきらめを孕んだ“古い”定型句になり下がりながらも、あらゆる場面に生きのびている。

こうした言説が生きのびているのは、結婚に代わりうる人間の社会的な紐帯の可能性が示されないまま、異性間の婚姻関係だけが、法や社会経済制度によって特権的な裏付けを得ているからでもある。

「日常で感じる悔しさやジェラシーを逆手にとってパワーに変換する」ことをメッセージに掲げる楽曲の中で、「悔しさやジェラシー」の対象として「寿退社」を取り上げる選択の背後にも、女性が異性の”獲得競争”の渦中にいるというやんわりとした含意が横たわっている。


このように複雑に入り組んだ社会構造と制度の内側で、各々が生きていくために引き裂かれ迷いながら歩む姿、ただそれが“個人の選択”と呼ばれている。

 

社会の構造からはだれも自由になれない。

私も、この曲を歌って踊るアイドルたちも、この文章を読むあなたも。

 

27歳の私は、「寿退社」や「旦那の会社」云々というフレーズに対して羨望よりもむしろ強い警戒感を覚えるが、それも私の生育過程と、それによって得た現在の立場がそうさせているのだ。

一方でこうした社会のありさまを思えば、私とそう遠くはない誰かの人生のなかに、同級生の「寿退社」を知ったとき、自分がそのような生き方を望んでいなかったとしても、「悔し」さと呼ぶほかない(それ以外に誰かにやりきれなさを伝えられる言葉が見つけられないような)落ち込んだ気持ちを感じる瞬間は今この時にもあるかもしれないと思う。

 

しかしその「悔しさ」の背景には、男性に比して女性を低賃金で働かせ、階層化する、人間が作り上げた制度があることを私は知っている。

そうした制度の内部で、女性間の異性の“獲得競争”(とされるもの)の激しさに殊更フォーカスするような言説が繰り返され、女性の立場を分断すると同時にシスジェンダーヘテロセクシュアルを生きていない人々を不可視化してきたことも。

 

たくさんの人が指摘しているとおり、曲の中で歌われるような人それぞれの暗い気持ちであったり、「悔し」さや嫉妬心を誰かが批判したり、否定できるわけではない。

むしろそれはこの社会の中で生きているからこそ生まれる当たり前の感情だ。

けれども、そのように人を――ある女性を「悔し」がらせているのは、本当は何だろう?

「悔しいわ」という曲のメッセージは、あくまで対人的な「悔し」さの表明と自己研鑽への導きに終始し、こうした問いの可能性を示唆しない。


制度化されてきた性差別の歴史と現在地を知る人にとって、ある表現は耐えきれないノイズになる。

それはなぜノイズになっているのだろうか。

ノイズは思考を呼ぶ。

つまり私たちは、この曲を聴きながらいろいろなことを思考できる。

 

1978年に生まれた男性が今こうした歌詞を10-20代の女性アイドルに歌わせ、それを私たちが聴く構図はどのような意味を持つのか?

資本主義的な競争で優位な立場に立つ男性と結婚し、「寿退社」を選ぶ人のことを、「インフルエンサー」や「モデル」と並ぶような「同世代の凄い人」と外から言い切ってしまえるだろうか?

権力や利益の偏在する社会構造や制度のなかで自分がだれかと比較してうまくいっていないと感じるとき、自分自身を「鼓舞」することだけが生きる道なのか?

 


先日、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』という書籍のなかで、ハロプロの音楽表現には女性を語り手とする多数の楽曲が生身の身体によって上演され続ける中で差異が溢れ出す、そうした多声性の魅力があると書いた。

しかし、一人称の定型的な物語のコードが少しずれながら重なっていく中で個人の差異があらわれることと、現実にある社会の制度がたくさんの個人に与え続けている痛みを単にそのまま反復することは違うはずだ。

 

ちなみに、私が労働のあり方や雇用制度というものに関心を寄せるようになったのは、女性なのに仕事を続けるつもりなんですか?と訊ねてきたり、事務職や非正規雇用の女性をうっすらと軽視したりする同級生の言葉や態度が悔しくてたまらなかったからだ。


今10代の人たちが、私と同じ歳になるころの社会はどのようだろう。

「寿退社」という言葉はまだ生きている?男女の収入格差は?

あるいは女性のアイドルがアイドルとして、もしくはアイドルを辞めた後、稼ぎ続けることができる?

法律婚は同性を含むあらゆる人たちに開かれたか?

そのうえで婚姻という制度を利用しない生き方を、だれもが不安に思わずにいられる?

 

これらの問いに対しておそらく誰も明るい見通しを提示することができない。
今の私はそのことがとても悔しい。

 

*1:ハロプロ所属アイドルの”25歳定年説”がファンの間で囁かれたことがあった。この説は所属アイドルの口から度々否定されており、25歳を超えて在籍するメンバーもすでに存在する。ハロプロ「25歳定年説」ついに破られる ファンに囁かれ10年以上...卒業年齢は「二極化」か: J-CAST ニュース【全文表示】

*2:その裏面で、「日本的雇用慣行」とされる男性の「終身雇用制度」が構築されている。WEB上で参照可能な資料として、大森真紀「性別定年制の事例研究-1950年代-60年代-」早稲田社会科学総合研究 17(2), 1-24

*3:1992年に育児休業法が施行された。

*4:参照資料:厚労省平成26年度コース別雇用管理制度の実施・指導状況」https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000101661.html

*5:この点を詳細に分析する書籍として、菊地夏野『日本のポストフェミニズム「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店・2019)をおすすめしたい。江原由美子『増補 女性解放という思想』(筑摩書房・2021)に収録されている「増補」でも、戦後とくに80年代以降の日本の女性が置かれてきた状況が端的にまとめられており読みやすかった。

*6:「上場」のダブルミーニングと読んでも良さそうだ。